ジャズピアニストの巨匠・オスカー・ピーターソンが82年の生涯を閉じたのは07年12月23日。カナダのオンタリオ州ミシソーガの自宅。モントリオールに生まれ10代からクラブ出演。24歳の時プロデューサーに見いだされて同49年にカーネギーホールで公演した天才型。
その彼が日本にやってきたのは53年11月。ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック(JATP)のピアニストとしてである。彼は公演先で、日本人の演奏もよく聴きに歩いたというが、そのほとんどは、アメリカのレコードコピー演奏ばかりだった中にあって、唯一人の例外が、穐吉敏子だったという。しかも、演奏の素晴らしさ、独創性に感激した彼は、プロデューサーのノーマン・グランツに、彼女のことをまくしたてて、レコーディングが決まったのだ。メンバーはJATPのリズムセクションという夢のような出来事。
かくして8曲入りの10インチ(25㌢)盤のLPとして「トシコズ・ピアノ」としてアメリカで発売になり、大変なうわさになった。その縁で、バークリー音楽院へ奨学生となって、ジェット以前のプロペラ機で太平洋を渡っていったのが56年。それからすでに53年の月日が流れ、穐吉さんは今79歳である。
オスカー・ピーターソンが、生涯に受けたグラミー賞は7回だが、連続10年合計14回、史上最多と言われるノミネート回数ながら、一度も受賞したことのない穐吉さんは、それを称して、ガラスの天井と言った。(それはアメリカの人種差別を差す、見えない天井のこと)。
また、オスカーのデビューコンサートがカーネギーであったのに対し、穐吉さんは30年続けたオリジナル演奏のジャズオーケストラ、最終コンサートを同ホールで行い、終了演奏をニューヨークのジャズクラブで行ったことは、彼女一連のしゃれだったと、今にして思うのだ。かつて「処女航海」で世界へ出た、ハービー・ハンコックが「リヴァー」に戻って07年のグラミー最優秀アルバム賞を受賞し、ジャズ界に希望(ホープ)をもたらした。これもしゃれかな。