前夫・マリアーノ氏逝く<28>2009.7.27.盛岡タイムス

 ジャズ専門紙スイング・ジャーナル・09年8月号を読んでいたら、世界のジャズニュースのページに、アルトサックスのチャーリー・マリアーノ逝く、とあった。

  それによれば、6月16日、ドイツ・ケルンのホスピスで、がんが原因の合併症のために他界、85歳だった。本名・カーマイン・ウゴ・マリアーノ。1923年11月12日、マサチューセッツ州ボストン生まれ。幼少期にピアノ、17歳からサックスを演奏、第二次世界大戦中は空軍バンドに在籍し、戦後、バークリー音楽院の前身である、シュリンガー・ハウスにて学んだ方だった。

  地元周辺で活動後、スタンケントン楽団に加入。その後ロサンゼルスで活動。後にボストンに戻り、バークリーで教べんを取ったとき、日本から留学してきた穐吉敏子の恩師となった。同音楽院4年の教程を3年で卒業したほど成績が優秀だった穐吉と、卒業後の59年に結婚し、トシコ=マリアーノ・カルテットを結成し、60年、同カルテットのファースト・アルバムを録音。この中には、例の穐吉のテーマ曲となった「ロング・イエロー・ロード」(新曲)が入れられた。故郷・満州の黄土で覆われた道と、アメリカで黄色人種としてのジャズの人生を歩む、これも長い道になるな、と思って作曲したという曲である。

  そして61年、トシコ=マリアーノ・カルテットの初来日となるのである。穐吉31歳、マリアーノ37歳のときである。すでにアメリカで6枚ものアルバムを発表し、大成功を収めていた穐吉とその夫と初帰国、ということもあって、一躍日本でも時の人となって、羽田空港には横断幕まで張られたという大歓迎を受けた。

  63年2月の2度目の帰国ツアー時には、穐吉さんのおなかには、9月19日に生まれる、マンディ満ちるがいた。マリアーノは当時、穐吉さんの推薦でバークリーに入学した、アルトサックスの渡辺貞夫と、05年に再会コンサートを実現させ、「サダオ&チャーリー・アゲイン」というアルバムも出している。