内田晃一氏とジャズワールド<72>2010.5.31.盛岡タイムス

 創刊30周年を迎えたジャズ新聞「JAZZ.WORLD」の社主で編集長でヴィブラフォン奏者である・内田晃一氏の「音楽生活60周年記念祝賀会」が10年5月16日(日)15時から、赤坂の「バードランド」で開かれ僕も参加した。

 ジャズワールドは「日本ジャズヴォーカル賞」を主催しているだけに、お祝いに駆けつけた歌手の数のすごさ、延々7時間。様々な個性を身に着けた歌手たちが、次から次へと1曲づつ唄い繋いで行く、まさに日本ジャズヴォーカリスト総出演と言っていい程の豪華さ。

 しかもプロ生活60周年にして初めてのリーダーアルバム「OBLIVION」(忘却)の発表も兼ねたもので、誰かがギネスものだなと言っていた、内田さん最高の日でした。

その忘却で思い出した事があって、古いジャズワールドを開くと、やっぱりありました。87年8月号。内田編集長が同社のニューヨーク特派員だった玉川恒一氏と連れ立って、ジャズピアニスト・穐吉敏子さんをマンハッタンの自宅に訪ね、渡米30周年を迎えた彼女へのインタビュー。第一面から二面まで続く気合をいれた記事。

 そこで語られていたのは「滞米30年の結果、多くの人から私が注目されていることが、私自身に対する大きな戒めになっていると思います」。ダウンビート誌での国際批評家投票で、作曲・編曲・ビックバンド部門の世界制覇や、ニューヨーク自由の女神賞を受賞したことも含めながら、浮かれずに答えているのは、ニューヨークで仕事をし、生き残ることの厳しさを体験し、トップに立ってる彼女にして言うことの出来る言葉なのだと思った。

 ロス時代のジャズメンについては、職人芸としては高いが個性に欠ける。NYではミスさえも許されない。相当タフでなければやっていけない。名前のある人しか仕事が出来ない厳しい所なのだとも。

 「作品は真の批評に耐え、多くの人によって支持されるというのは、歴史のみが証明する結果であって、私の作品は私の生きている間は認められないのでは無いかと考えていた」とある。