父子2代の雷ドラマー<29>2009.8.3.盛岡タイムス

 僕の店、開運橋のジョニーには、4枚のジャズ・ミュージシャンの絵がある。1枚はもちろん穐吉敏子。そして渡辺貞夫。あとの2枚は、故人となったジョージ・川口。松本英彦。誰もが写真だと思ってしまう。

  この絵を描いたのは、07年1月、71歳で亡くなられた菊池コージ(本名・幸吉)さんという方だ。遠野市で看板業を営む傍ら、ジャズ・ドラマーとしても随分活躍した。僕は、陸前高田で店を開いていたときに、店外で開くコンサートや、野外フェスティバル(日本ジャズ祭)などの横断幕やノボリ、ポスターなど、ほとんど無償で、どれだけの回数と枚数を書いて頂いたことだろう。店頭用の電光看板もそうだった。

  もちろん演奏でも何度となくお世話になった。彼は彼で、地元遠野で、民話の里にジャズが流れる!とジャズ・イン・遠野という自らメーンに立ち、ゲストにプロのジャズメンを呼ぶ催しも、幾度も開催し、その都度、僕をプロデューサーとして迎えてくれたものでした。

  その昔、名ドラマーと呼ばれた、白木秀雄にあこがれて、ドラマーになり、プロで活躍した時期もあった彼だから。と、ジョージ川口・ビック4を遠野に呼んで、それこそ、市民会館の大ホールで、ジョージさんとドラムバトルという、夢の競演も実現したことがあった。

  ジョージ川口さんが、穐吉敏子ジャズ・オーケストラの広島組曲初演のとき、原子爆弾が、投下され爆裂するさまを、音で表す役のドラマーとして起用されたのは、01年8月6日のことでした。そう、陸前高田で20年行われている全国太鼓フェスの第1回(89年)は太鼓とジョージ川口さんのドラムとの競演でした。

  そんなさまざまな昔話などをしながら、ジョージさんの息子、川口雷二さんに、彼の父のレコードにサインをもらったのは、09年7月26日、開運橋のジョニーでのビッグ3の終演後のことでした。父子2代の川口バンドで35年レギュラーでベースを担当している水橋孝さんとは話がはずんで夜明け酒でした。