木更津甚句~ザ・ビレッジ<61>2010.3.15.盛岡タイムス

 代表曲「黄色い長い道」と並ぶ初期の作品で、61年の初帰国時に朝日ソノラマにレコーディングされた「木更津甚句」は穐吉敏子の顔ともいえる曲。50年過ぎ去った今でも、ソロでは必ずといっていい程演奏する。穐吉さんならではの編曲がほどこされ、これがあの民謡?と思わせられる。

 「ハア~木更津照るとも東京は曇れ、可愛いお方が日に灼(や)ける。船は千来る万来る中で、わしの待つ船まだ見えぬ。泣いてくれるな出船の時は、沖で櫓櫂が手につかぬ」

 江戸時代、船の関所として栄えた、千葉県木更津の民謡(酒盛唄)で、落語家・木更津柳勢が、江戸の高座で唄ったのが始まりといわれ、大正時代になってから木更津出身の芸妓・若福が、新橋のお座敷で唄い始め、東京の花柳界で大流行し、全国的に知られ、やがて日本を代表する民謡の一曲となった。

 かつて、穐吉さんの姉が千葉に住んでいたことからか、当時この曲にソノシート盤で出合った穐吉さんは「美しい曲で日本的な香りがする、所々愉快なリズムが入っている」と感じ、これを工夫して何とかしてみようと思って書いた曲が、こんにちのタイトル「ザ・ヴィレッジ」なのです。

 オスティナート(反復)する左手の力強さ、目にも止まらぬ速さの右手。しかもこれが4分の5拍子という難しいリズム。当時日本の文化をジャズに取り入れたいと考え始めた頃の作品であり、その第一作といっていいのだろうと僕は思う。この曲における新しいジャズスタイルへの挑戦的試みこそ、こんにちのアキヨシ・ジャズの土台なのだ。

 「ハア~狸可愛いや証城寺の庭で、月に浮かれて腹づつみ」木更津甚句に出てくるもう一節であるが「証城寺の狸ばやし」なども穐吉さんに聴かされたであろう夫のルー・タバキンさんは、70年の初来日時に、なんと日本から、どでかい狸の焼き物をニューヨークの自宅に持ち帰り、彼の代表作といわれる「狸の夜遊び」を作曲した。それまで自分の曲しか演奏しなかった穐吉敏子ジャズ・オーケストラが、のちに、愛をこめて「狸の夜遊び」を演奏したのだった。