コージー・カルテット<53>2010.1.18.盛岡タイムス

 日本のジャズ史に残る伝説の「コージー・カルテット」は52年7月の誕生。当時のダンス音楽的なジャズから脱却した「モダン・ジャズ・コンボ」で、リーダーは若干22才のジャズ・ピアニスト・穐吉敏子さん。

 だが、この最初の「コージー・カルテット」は、メンバーの一人が胸を患い、一ヶ月で解散。第二次「コージー・カルテット」が出来たのは、銀座に、アメリカ人用のクラブがオープンするという時で、穐吉さんへの出演依頼があったことから、日頃、注目していた若いアルト・サックス奏者・渡辺貞夫を迎えた。

 33年生まれの貞夫さんは、そのバンドが結成された53年は、彼もまた若干20才。親と約束、2年間の予定で宇都宮から上京。クラリネットを吹いていた。一年後、クラリネットを始めた時と同様、「銀盤の女王」という映画の中で見た、サクソフォンに憧れ転向。

 彼が穐吉さんに出会ったのは横浜の「ハーレム」という店。彼はその頃、リズム&ブルースをやっていたらしい。彼も、穐吉さんの存在はよく知っていて、当時すでに雲の上の人であったから、声を掛けられた時は、とても嬉しかったという。

 彼は、当時を振り返り「週刊文春」09年12月10日号で「彼女のグループに参加して、徹底的にしごかれましたよ」と語っているが、当時は、楽器さえ持っていれば仕事はあったが、やはり、刺激のあるミュージシャンと演りたいと思っていた時だったらしい。

 穐吉さんは穐吉さんで、仕事で二時間位弾いたのでは物足りなく、よく深夜まで開いている、アフター・アワー・クラブへ行ったという(毎日毎日ダンスの為の演奏するのが嫌になってきていた時)。しかも、自分のプレーにすら満足出来なかったらしい(向上心の為)。

 だから「コージー・カルテットは、モダン・ジャズばかり演奏する」と、一日二日、で、演奏を打ち切られる状況にあったという。しかし穐吉さんは、自分のバンドのメンバーには、仕事が無くても「月給を保証する」というポリシーを、質屋に走ってまでも守り貫いた人だったと、知る人がいる。