婦人公論の穐吉敏子論<58>2010.2.22.盛岡タイムス

 前回に少し触れた「婦人公論」10年2月22日号№1292。に掲載された、穐吉敏子さんに関するルポルタージュ=歌代幸子から、穐吉敏子の言葉(語録)を拾ってみようと思う。

 「ピアニストとしての経験や、アメリカで一緒に演奏した素晴らしいミュージシャンたち、そのすべてが私の財産になっているのです」この言葉が、80才の今なお、成長し続けている、彼女のピアノの力強さの秘訣なのだ。

 「デュークは、自分が黒人だということを誇りに思い、その歴史に根ざした曲が非常に多い。と、書かれていた」。デューク・エリントンが亡くなった時、新聞の追悼文を読み、「ジャズという音楽はアフリカとヨーロッパの文化が混ざり、アメリカで生まれたもの。そこに日本の文化を織り込むことが私の仕事じゃないかと思ったのです」。すでに「孤軍」を発表し、そうしたことを始めていた穐吉にとって、その新聞を読んで、自分の考えに確信を持ち、江戸時代の遊郭に生きた女性たちをテーマとした「花魁譚」(おいらんたん)や水俣病をテーマに書いた組曲「ミナマタ」等々、その後の彼女の作曲のバック・ボーンとなった。

 01年広島で初演された「ヒロシマ~そして終焉(しゅうえん)から」と題する組曲は、依頼された時の「写真集(原爆投下3日後に撮影されたもの)を見たときはショックで、こんな無残なものは書けない、お断りしようと思いました。でも(最初は見落としていた)防空壕から出てきた若い女性の写真があり、地下にいたため被爆せず、ちょっと上を見て微笑している。その清らかで、希望に満ちた顔を見たときに、私もこれなら書ける。と思ったのです」その組曲の最終章曲「ホープ」は「人間どんな時でも希望をなくしては生きられない」と穐吉敏子さんは、この曲発表直後の9月11日に起きた、同時多発テロ以来、彼女はコンサートの最後に必ずこの曲を演奏し、世界中、いつでも、どこでも、どんな時でも、聴衆やファンに向かって「愛し合わなくてもいいから、お互い少しガマンし合えば、戦争はしなくてすむ」と説き続けている。