開運の橋を渡る<1>2009.1.19.盛岡タイムス

Toshiko’s   Dream

 ジャズ日本列島唯一「日本ジャズ専門店」のドデカイ看板を掲げたのは78年。国民的歌手・千昌夫の故郷陸前高田でだった。五木寛之氏の小説「海を見ていたジョニー」にちなんで名付けた音楽喫茶「ジョニー」は75年のオープンでしたが、「外盤」(外国人が演奏した)レコードを売り払っての再出発。

 日本のジャズとともに育っていきたいと願い、ライブ活動に精を出し、東京中心に活動しているプロ演奏家たちを、毎月何度か陸前高田へ呼び続けること20年。その間に30タイトルほどのレコードを製作。時には野外での超大型「日本ジャズ祭」なども企画主催。その活動がピークに達したとき、赤字も膨大となり、ライブコンサート活動に終止符を打った。

 ところが翌年から、あの「世界のアキヨシ」さんが、火事場にバケツで水を掛けるようなものでしょうが「気は心」「ご奉公に伺います」と言って、何度もジョニーにやってきて、ピアノ演奏をプレゼント。97年には、陸前高田市の宣伝ウーマンとして、陸前高田ふるさと大使まで引き受けてくれたのでした。

01年、春。その陸前高田ジョニーは、友人からの懇願により箱(スペース)を引き継ぐ形で、盛岡の開運橋通に、自分と店の名前を移転した。最初の1年間は陸前高田方式で、東京のミュージシャンを中心とした。2年目からは、県内と地元盛岡のミュージシャン中心へと、夢の地産地翔型へ方向転換した。

それならばと、地元の元プロK氏が率先し、第1土曜のジャムセッションを企画。

そこへ演奏場所がなかった、かつてのバンドマンや学生たちや個人が参加し、いくつものグループが生まれ、毎月レギュラー出演できるまでになり、それぞれのファンが聴きに来る。

 最近では遠方からのお客様もだいぶ多くなった。それというのは、やはり「生きたジャズの伝説」こと穐吉敏子さんが「愛して毎年のようにライブをする盛岡開運橋のジョニー」として多くのマスコミが取り上げてくれたことによる。(開運橋のジョニー店主)