09年2月、日本の送葬曲?映画、納棺師物語の「おくりびと」がアメリカのアカデミー賞を受賞し、オスカー像をゲットした。
その同じころ、盛岡の隠れジャズ喫茶バー「オスカー」には35年続いた店の閉店に立ち合うために、それこそ、いい年をした幾人もの隠れジャズファンがひっそりと集まっていた。端を発した純喫茶シネサロンから数えれば40年の店歴だが、映画のオスカーから、ジャズのオスカーへと変身したのは74年、川徳デパート前の樋下第2ビル地下から始まって、のち神明町→中ノ橋通→神明町→桜山神社前と店を移しながら営業してきた。
オスカー店主でママの袰岩京子さん(74)は、レコードクラブや活動クラブをやっていた兄が亡くなってからは気力が失せてしまったのだと。
僕が店を知ったのは、76年9月号のスイングジャーナル誌上でだった。当時同誌の全国ジャズスポット巡りという、県ごとにジャズ喫茶の紹介をするシリーズ8回目の岩手編。
一関ベイシーに始まり盛岡のオスカー、チェック、8-6、伴天連茶屋、パモジャ。北上・タック。大槌・クイーン、花屋敷。釜石貴族院。宮古・ミントンハウスの11店が紹介されていた。オスカーに関してはジャズ喫茶というより「ジャズクラブ」といった感じのしゃれた店との紹介だったとおもうが、本に載っていた店で今あるのはベイシーとクイーンのみとなる。僕の店、ジョニーは75年のオープンだがジョニーの後にできた店も載っていたのに載らなかったというショックは大きかった。
それはともかく、オスカー閉店に伴い10枚ほどの古い日本人のジャズレコードをいただいたのだ。そこには僕のジャズの原点となった宮古出身のジャズピアニスト故・本田竹彦(広)の浄土や、それこそオスカー(ピーターソン)に見いだされ、渡米した穐吉敏子が日本に居た時に自己カルテットに抜てきし、のち彼女の推選で渡米留学ができた、アルトサックスの渡辺貞夫の帰国時の第一作などがあった。