穐吉敏子の旅物語<#10>2024.4.1.紫波新聞

一人娘マンデーミチルは盛岡町で生まれた?!

 港区麻布広尾町の自然林傾斜地には、小川や池、広場、記念碑、銅像、都立中央図書館などの有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園がある。そこは江戸時代の盛岡町で、旧盛岡藩南部美濃守の下屋敷があった。明治29年有栖川宮御用地となり、その後対象2年高松宮御用地となったが、高松宮殿下が昭和9年1月5日、有栖川宮威仁親王の御命日にちなみ御用地を公園地として当時の東京市に贈与、同年11月17日の開園となった場所だ。

 その公園入口東側、各国大使館が並ぶ「南部坂」を登り切った交差点には「麻布警察署盛岡町交番」がある。現在盛岡町の地名が残っているのは此の交番所の建物にだけである。そこに居た警察官OBの方にメモって頂いた番地は、麻布5丁目6-1番地であった。これを見て僕の頭にふと浮かんだのは、1963年(昭和38年)8月19日の月曜日に、穐吉敏子さんの一人娘マンデーミチルが生まれた愛育病院のこと。確か?だったような?と調べたらなんと同じ麻布5丁目(旧盛岡町)なので、びっくり仰天!穐吉さんは江戸の盛岡でひとり娘を出産したのでした。すでにこの時(62年前)からの縁で「穐吉敏子ジャズミュージアム」が岩手の盛岡に開設!との、後付理由?も見つけたのです。

娘を預ける決断!!

 「ただ娘のミチルだけは当分、愛育病院に預けることにしました。不在がちの自分が育てにくい間、専門的な立場からめんどうを見てもらうのが最も賢明と思われたからで、私は冷静な立場から、このことを認めてもらいました」そして又「アメリカは私に人間の魂である真のジャズを教え、また、こうした合理的な生き方を教えてくれました。私はその中で、日本人としてのうるおいを失わずに、生きていきたいと思っております」と、マドモワゼル誌1964年1月号に手記を寄稿している。

美智子上皇后への献上曲は?

  愛育病院は昭和8年12月23日上皇陛下誕生を機に昭和天皇が伝達された御沙汰書をもとに創立された。昭和13年12月小児科、昭和15年12月産科を設置。診療と助産及び乳幼児の保育義務を開始している。昭和24年医療法で愛育病院と改称、今日に至るまで母子に優しい医療を実施している様子。だからこそ、のちに、穐吉さんは上皇后美智子様への献上曲を作られたのか!と、これ又僕の後付。平成27年愛育病院は芝浦に移設した。元の愛育病院は社会福祉法人恩賜財団慶福育児会となり、乳児院や特養老人ホームへの運営へと移行、穐吉さんの名曲「タイムストリーム」のような「時の流れ」である。

紫波新聞 令和6年4月1日 新第162号(174)より