世界の宝<62>2010.3.22.盛岡タイムス

 あれは、84年10月27日(土)の事だった。僕の店「ジャズ喫茶ジョニー」開店10周年記念として開催した「新生・秋吉敏子・ニューヨーク・ジャズ・ビック・バンド」いわゆる、秋吉敏子・ジャズ・オーケストラの初来日公演。

 この来日公演は何と東京以北は岩手県、しかもまさかの陸前高田のみ!という夢のような出来事。開演二曲目に演奏された「ブルー・ドリーム」は、秋吉さんが一晩のうちに3つ位見る夢をほとんど覚えていて、その夢を見る自らの精神の奥を探った末に生まれた曲だったそうだが、それはまた、ファンの僕にとっての正夢ともいえた曲だった。

 米西海岸で10年活動し、№1になったビッグバンドを解散して、ジャズのメッカ・ニューヨークへ戻って再編したオーケストラもまた、同様に穐吉自らが作曲した曲、いわゆる「日本のジャズ」しか演奏しない前代未聞、前人未踏の境地を往く「創造しいジャズ集団」だった。

 「ニューヨークには、音楽を志し生活が苦しいのを覚悟の上で集まるから、メンバーも気が荒く、シンが強い。その分ロスのバンドに比べアンサンブルは少々劣るが、ダイナミックなサウンドだ」と穐吉さんが当時言っていたように、ニューヨークでの第一作「テンガロン・シャッフル」は正にそれだった。

 「米国人に対し、言葉使いに気をつけたが、音楽に関しては譲らなかった。そうでなければ挫折していただろう」このいい意味での“頑固”さが穐吉のいう「音楽はビジネスではない!」。いわゆる“心の芸術”なのだ。

 この時のコンサートにはアメリカ大使館から、マンスフィールド駐日大使秘書官・フィッツ・パトリックご夫妻が来高。「時には自国の最高の宝を見るために外国へ行かなければなりません、ジャズもその一つです。秋吉敏子とそのオーケストラは無比の音楽家であり、皆様はこの事実を知り、世界も知っています。日本の皆様はトシコさんを同じ日本人として誇りに思っていらっしゃるでしょう。しかし、移民の国であるアメリカも同じ位誇りを持って、自分の国の宝だと言ってトシコさんを世界に紹介します」というメッセージを読み上げたのでした。