ソルベージソング・メモリー<100>2010.12.27.盛岡タイムス

 穐吉敏子さんが、日本でピアノソロ活動も行う様になったきっかけは、87年8月22日の陸前高田「ジョニー」での初ライブ。しかも、そのライブを引き受けたのが、ライブの4日前。という初づくし。更には、当日、東京から穐吉さんと同行して来たのが、満州(現中国)大連の弥生高等女学校時代の同級生・口羽尚子さん。

 彼女から、今年東京で聞いた話によれば、あの日の前日「敏子さんから電話が入って、明日、岩手に行かない?って誘われた」。ということでした。しかし、口羽さんは「東北へ行ったのはあれが初めてで終わりです。新幹線降りてから延々と車なので、どういう所かなと思ったら、当時TVに出てた“気仙沼ちゃん”の近くだったわよね。あの時ごちそうになった“うに”のおいしかったこともわすれられないの」。

 口羽さんは64年のオリンピックの時、女学校時代の同級生達を全国から集めて、穐吉さんを囲む「ウエルカム・ティー・パーティー」をプリンスホテルで開いたのだとも。

 それこそ、61年の初帰国リサイタルの時に残したソノシート盤のレコードで、穐吉さんは「ソルベージソング」を弾いているが、その曲について口羽さんは「女学校1年の昭和18年(43年)3月の送別会の時、英語の渡辺一郎先生が来年度から英語の授業が廃止になるから、最後にと言って、ソルベージソングを原語で歌ってくれたんですよ。その後先生はソビエト(現ロシア)で21年2月に亡くなられたんですが、私はあの歌ってくれた先生を今でも忘れられない。だから、穐吉さんがあの曲を演奏すると私はあの時の光景がオーバーラップするの」。だとも。

 「穐吉さんが紫綬褒章を授賞した時、“宮中に持ってく風呂敷を忘れたから、貸して”って電話があって、娘のマンディさんが車で取りに来て、次の日、穐吉さんがその風呂敷を返しに来て“私甘いの弱いから食べて”って授賞式で頂いたお菓子をわざわざ持参して来て下さったの。お菓子は皆で分けて頂いたけれど、宮中へお使いに行って来た、色のきれいな“本ちりめんの風呂敷”はそれ以降、私の宝物になったのよ」。と嬉しそうに微笑んだ。(完)